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さちくま。の部屋

さちくま。の部屋

竹中半兵衛

 豊臣秀吉の軍師としてその名も高い竹中半兵衛は、本名重治。通称は半兵衛と称し、美濃国大御堂城主(現・揖斐郡大野町公郷)竹中重元の子として、天文13年(1544年)に生まれたと言われている。この頃竹中氏は美濃の国主・斎藤家に仕えていた。
 永禄元年(1558年)父・重元は不破郡岩手村(現・垂井町岩手)に居城していた岩手弾正を襲い、福田・長松・岩手付近を領し六千貫の領主となった。翌年2年菩提山に城を築き、重元・半兵衛親子は山麓の集落西福に邸を構え移り住み、引き続き斎藤家に仕えた。
 半兵衛は幼より学を好み、兵書を学び、口を開けば理にかなう事をはっきりと言った。しかし、普段の言動はおっとりしていて、身体つきも弱そうで、乱世に生きる武士としては頼りなさそうに思われていた。その為、父没後も仕えていた斎藤家の家臣達から「うつけ者」と嘲笑されていた。
 永禄7年正月、恒例の年賀の挨拶に稲葉山城に登城した半兵衛を、斎藤家の家臣達が侮辱した。半兵衛の家臣が怒ろうとすると、これを制し、知らぬ顔で岩手に帰った。
 半兵衛はすぐに策を回らせた。安藤守就と相謀って、同年2月6日、稲葉山城に人質として預けられている弟・久作の病気見舞いと称して従者16名を率いて白昼堂々と城へ赴き、夕刻を待って武具を付け登城し、番頭斎藤飛弾守以下数名を切り伏せた。城主竜興は驚き弟飼城へ逃れ、半兵衛は名実共に稲葉山城主となった。
 難攻不落と言われた城を主従18名で奪取したので「美濃に半兵衛あり」とその名は全国津々浦々に知れ渡った。




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